2010年04月23日
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江戸時代初期の文書は意図的に破棄されたのか?

Written By: 川俣 晶連絡先

 偶然、江戸時代初期の文書破棄に関する文章を2つ読みました。もちろん、両者に関係があるはずがありません。

江戸の厓 東京の厓 その7より

そうして、もっとも難儀なのは、江戸時代初期の、リアルタイムな地誌記録は、まったく隠滅していることなのです。

鈴木理生さんは、家康江戸入府から100年間の地誌欠落について、徳川氏による意図的な史料抹殺のためと断定しておられますが、たしかに有力な仮説でしょう。

つまり、すんなりとは受け継がれない、何か強引無道なわざを、徳川「進駐軍」は力にまかせて行った可能性がある。

だから、記録は残さない。人の書いたものまで探し出して破棄し、水も漏らさぬ情報管理を徹底した・・・と。

七澤の郷士は、松原の上保さんだった その2より

「松原の資料がないのは、記録がないのではなく、敢えて残さなかったのかもしれないですね」

「どうしてですか?」

「今の明治大学から、本願寺にかけては、火薬庫だったじゃないですか?」

「ええ。駅も火薬庫前でした」

「その前身は、幕府の焔硝蔵。すなわち武器庫です」

「そうだったらしいですね」

「当時最高レベルの軍事機密ですよね」

「そうでしょう」

「だから、残っていないのではなく、残せなかった」

「そういわれるとなんとなく分かりますね。普通の場所ならば、多少のものは残っている。それが、ここは、言ってみれば松原のほとんどはウチの一族のものじゃないですか。それが何も残っていないのは不思議でしょうがない」

 実は、玉川上水も建設当時の状況は良く分からず、誰が作ったのかもはっきりしません。江戸時代の上水記の著者ですら、状況が良く分からないで異説を紹介してしまうぐらいの混迷ぶりです。下高井戸の歴史もある程度深入りすると良く分からなくなってきます。

トンデモの遠因? §

 ここで話を更に進められることに気づきました。

 以下の仮定を置きます。

  • 江戸時代初期には資料の抹消が行われた

 さて、徳川家康は以下の2点を行っているはずです。

  • 既存関東勢力の平定と江戸統治
  • 大規模な江戸の土木改良

 ここで、資料の欠落を資料の欠落と意識しないで読むと何が起こるかというと、「何もなかった」という解釈が出てきます。

 すると、「家康が来るまで江戸には何もなかった」というおかしな矛盾する解釈がいかにも正しいかのような錯覚が生じます。

 しかし、実際に「何もなかった」ということはあり得ないわけで、それは錯覚でしかありません。錯覚が生じる理由はいろいろあるでしょうが、文書の破棄も確かにあり得そうです。

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